2011-07-21

科学的に議論するということ

大竹文雄先生のブログにリンクされている阪大ニューズレターの対談「大学の知力にできること」を読んだ。

いろいろな論点が提示されていると思うが、大学教員としては、「科学に対する間違った絶対視信仰」、「100点取れる科学」の誤りについて共感した。

現在、「正解があるのかないのか」あるいは「どの程度正しいのか」については、日本の学校教育から完全に排除されていると言ってもいい。

数学については正解があるだろう、と言われるかもしれないが、数学は厳密な意味では科学ではない。数学は前提(仮定)の下である定理が成り立つことを保証するが、前提が正しいかどうかについては責任を持たない。前提を確認するためには、対象を観察し、実験し、場合によっては社会調査などで事実の断片を取り出して調べる必要があるのだ。

しかし、ほとんどの場合、前提の確認は完全にはできない。実験室で理想的な環境で実験していてさえ、前提が間違いないと言えるまで確認するのは大変である。

私は数学のほかにハードウェアセキュリティの実験的研究もしているが、ごく簡単なことを確認するときでさえ、数ヶ月を要することは珍しくない。やっていることは、ICカードなどのマイクロコントローラを強制的に誤動作させ、内部の暗号鍵を取り出す攻撃とその対策技術の研究だが、どのような条件下でどのような誤動作が起きたかを調べるのはなかなか難しい。

例えば、電圧の瞬断や異常クロックの印加で、暗号処理の結果がおかしくなったとする。暗号処理の「間違った値」は何によってもたらされたのか? データレジスタの値か、インストラクションレジスタの値か、はたまたパイプライン処理に起因するのか……。こうしたことを一つ一つ確認していくのだ。実験の条件が揃っていないことが、だいぶ実験が進んでから判明することもある。そうなったらまたやり直しだ。やり直す以外に真実を知る手段はない。

これが自然や社会となると、その難しさは倍増する、倍増程度ではなく、数百倍、数千倍くらいの複雑さになると言っても過言ではないと思う。地球科学や経済学などでは、実験自体が容易でない(ほとんどはできない)。そうした場合、絶対間違いない科学的知識というのは、ごくわずかになってしまう。先端になればなるほど、どうしても意見が割れる部分が出てくる。それが科学というものであり、科学的知識というものであり、そうした限界を意識しつつ、粘り強く証拠を積み上げて考えることこそ、科学的な態度というものだ。

日本の教育はどう贔屓目に見ても、この種の「答がはっきりしない」問題に対する対処に弱い。極端から極端に意見が振れてしまうのはこのためだろう。0か1かしかない。デジタル的である。

しかし、真実は0と1の間にあるのだ。日本の教育に必要なのは「議論」である。様々な意見を聴き、一つ一つ根拠を確かめて議論を積み上げていくこと。感情的にならずに話をすること。言葉狩りをしないこと。

議論に勝者と敗者はいない。我々に必要なのは勝者と敗者ではなく、真実だけだ。

2 コメント:

Newtonlove さんのコメント...

>議論に勝者と敗者はいない。

 初めてコメントします。

 個人的経験(京都大経済学部卒)からすると、経済学畑の学者や評論家さんたちのレベルが余りにお粗末ですね。
 前提条件なんか気にも留めず、特定モデルを現実社会に当てはめようとする。データなんかそもそも見ない。データ採取→推論→実験、という科学のパラダイムそのものを理解してない人がほとんどでした。

 最近、三橋貴明さんらがネットで活躍されているのを見るにつれ、ああいった経済「教」の面々もいつか消えていってくれるのかな、と期待したりもしています。

 本屋で

Masahiro Kaminaga(神永正博) さんのコメント...

Newtonloveさん、コメントありがとうございます。

経済学は実証分析よりも理論が先行して発達した学問ですからやむを得ない面もあるのかもしれません。

最近は経済の実証分析も盛んになってきているので、状況が変わってくると思います。

とはいえ、経済関係の実証分析は頼りない感じがします。知人の経済学者が、「比較優位」でさえ、実証研究はちょっと怪しいと言っていましたが、確かに何を見ても確実な感じがしません。

複雑な現象を解明するのは21世紀の大きな課題ですね。