クリスマス&年末なのですが、クリスマス後にインド国外に滞在、年明け早朝に帰印、そのままインドでお正月を迎える予定です。
日本を離れて、すごく日本が恋しくなるかな、と思いましたが、食べ物と日本酒以外はそれほど欠落感がないのがなんだか不思議です。むしろもっとあちこちに行きたい気分です。私はあまり定住に向かない性格なのかもしれません。飽きっぽいだけかもしれませんけれど。
論文データベースにさえアクセスできれば、ノートPCを持って出かけていって、しばらくそこで考えに耽るのもいいな、と。街角のカフェでもいいし、もちろん大学でも研究所でもいい。そこであてもなく考え、あてができたらじっくり考え、仲間がいればときどき議論をして、考えがまとまったら論文にしたり、場合によっては本にするような生活。
これが理想ですが、普通の大学教員には現実的ではありませんね。
でも、ちょっとでも近づけたらいいなと、そんなことを思う年末なのでした。
では、みなさん、よいクリスマスを。
来年がみなさんにとってよい年でありますように。
2010-12-25
2010-12-21
人の行かないところに道あり花の山
前回の続きです。
数学科の卒業生が工学系の大学院に行ったら、さぞ活躍してくれるだろう、という金谷先生のご意見。
数学科卒業生としては大変嬉しいものなのですが……。
私は今のままだと、あまり期待できない(もちろんうまくいく場合がないという意味ではなく、期待ほどではないという意味)と思っています。
これは前回書いた縦割り体制と関係することでもありますが、最大の問題は、
数学科卒業生は、数学が至高(最高)の学問だと思っている
という点です。よく言えばプライドが高く、悪く言えば独善的です。ある生物学者に、「数学者は、純粋数学帝国主義者だ」と言われたことがありますが、その通り。
私自身がそうでしたが、数学科の卒業生は、学部時代に、数学の純粋性や美意識のようなものを植えつけられてしまいます。これは誰かが植えつけているというわけでもないのですが、結果的にそうなることが多いのです。
同級生や先輩でうまく行っている人たちは、皆数学の素晴らしい点を語ります。伝記もそうでしょう。ガロア、アーベルなどは定番ですし、ガウスとボーヤイ親子の話(非ユークリッド幾何)は言うに及ばず、日本人でも、岡潔、谷山豊など、天才中の天才(あるいはそれを取り巻く人々)の話などを聞いて、憧れる学生は少なくありません。特に、優秀な成績をおさめる学生はそうでしょう。
講義は、厳密です。計算練習はあまりありません。私は微分方程式の講義で微分方程式の解き方を習った記憶がありません(解き方は物理学の時間になんとなくやり、それ以外は、なぜかできるようになっていましたが)。 解の存在と一意性やらなにやらをやるのが中心で、実際に解くような原始的なことはやらんのです。これは別に理科大が特殊なのではなく、普通のことです。
天才数学者の伝記を読み、抽象度の高い講義をこなし、さて、4年生。
そういう学生が、工学系の大学院に行きたいと思うかというと、
思わないのではないかと。
たぶん、数学科でそれなりに優秀だった人は、工学をやりたくない人が多いのではないでしょうか。
そういうわけで、数学科の学生が工学系の大学院に行くケースというのは(もちろん、稀に、本気で工学が面白いという学生もいると思いますが)、たいていは
数学者になれるほど数学ができなかったから
ということになるわけです。この猛烈な敗北感。
これがある限り、うまくいかないと思うんですね。だって、負けたからやってることで一流になるなんて。
『食える数学
』に書きましたが、これはとんでもない思い上がりなのですが。
数学科にいる学生には、これがわからない。特に、まあまあできる人には。
これはどう考えても学部で純粋数学以外を教えていないことと、応用が面白いとか、実は奥深いとか、誰も言わなかった(あるいは声が小さすぎた)からではないかと思うのです。
これが『食える数学』の裏テーマでした。実は。
数学科の学生に、純粋数学以外の道があるということを伝えたいと思ったのです。あまり一つの価値観に凝り固まらない方がいいよ、と。金谷先生が言うように、数学をある程度難しいところまでこなせた学生なら、応用で画期的な仕事ができる可能性があるのです。
道は、一つじゃない。
そして、別の道は、もっと面白く、もっと有意義で、もっと楽しいかもしれないのです。
数学科の卒業生が工学系の大学院に行ったら、さぞ活躍してくれるだろう、という金谷先生のご意見。
数学科卒業生としては大変嬉しいものなのですが……。
私は今のままだと、あまり期待できない(もちろんうまくいく場合がないという意味ではなく、期待ほどではないという意味)と思っています。
これは前回書いた縦割り体制と関係することでもありますが、最大の問題は、
数学科卒業生は、数学が至高(最高)の学問だと思っている
という点です。よく言えばプライドが高く、悪く言えば独善的です。ある生物学者に、「数学者は、純粋数学帝国主義者だ」と言われたことがありますが、その通り。
私自身がそうでしたが、数学科の卒業生は、学部時代に、数学の純粋性や美意識のようなものを植えつけられてしまいます。これは誰かが植えつけているというわけでもないのですが、結果的にそうなることが多いのです。
同級生や先輩でうまく行っている人たちは、皆数学の素晴らしい点を語ります。伝記もそうでしょう。ガロア、アーベルなどは定番ですし、ガウスとボーヤイ親子の話(非ユークリッド幾何)は言うに及ばず、日本人でも、岡潔、谷山豊など、天才中の天才(あるいはそれを取り巻く人々)の話などを聞いて、憧れる学生は少なくありません。特に、優秀な成績をおさめる学生はそうでしょう。
講義は、厳密です。計算練習はあまりありません。私は微分方程式の講義で微分方程式の解き方を習った記憶がありません(解き方は物理学の時間になんとなくやり、それ以外は、なぜかできるようになっていましたが)。 解の存在と一意性やらなにやらをやるのが中心で、実際に解くような原始的なことはやらんのです。これは別に理科大が特殊なのではなく、普通のことです。
天才数学者の伝記を読み、抽象度の高い講義をこなし、さて、4年生。
そういう学生が、工学系の大学院に行きたいと思うかというと、
思わないのではないかと。
たぶん、数学科でそれなりに優秀だった人は、工学をやりたくない人が多いのではないでしょうか。
そういうわけで、数学科の学生が工学系の大学院に行くケースというのは(もちろん、稀に、本気で工学が面白いという学生もいると思いますが)、たいていは
数学者になれるほど数学ができなかったから
ということになるわけです。この猛烈な敗北感。
これがある限り、うまくいかないと思うんですね。だって、負けたからやってることで一流になるなんて。
『食える数学
数学科にいる学生には、これがわからない。特に、まあまあできる人には。
これはどう考えても学部で純粋数学以外を教えていないことと、応用が面白いとか、実は奥深いとか、誰も言わなかった(あるいは声が小さすぎた)からではないかと思うのです。
これが『食える数学』の裏テーマでした。実は。
数学科の学生に、純粋数学以外の道があるということを伝えたいと思ったのです。あまり一つの価値観に凝り固まらない方がいいよ、と。金谷先生が言うように、数学をある程度難しいところまでこなせた学生なら、応用で画期的な仕事ができる可能性があるのです。
道は、一つじゃない。
そして、別の道は、もっと面白く、もっと有意義で、もっと楽しいかもしれないのです。
2010-12-17
数学と工学の交流
『これなら分かる応用数学教室―最小二乗法からウェーブレットまで
』の金谷先生のお書きになった文章をもう一つ紹介しておきます。
金谷健一,数学と工学の断絶,盛和スカラーズソサエティ会報, No. 6(2006-8), p. 24.
これほど数学科卒業生に期待してくれているということに感激しました。
ここでは、なぜ縦割りになるのか、その理由について書きます。縦割りが悪い、と断定することもできないので、ここでは価値判断は脇に置きます。
先生が指摘されているように、日本の縦割り学問体制はちょっとハードです。
勉強している学生だけでなく、大学にポジションを得た後も、私のようにいろいろな学問分野を横断するタイプの人間は、いろいろと損なことが多いです。良い悪いは別にして。
学際分野というのは、縦割り学問を打破するためにあるはずですが、少なくとも日本では、学際分野はそれはそれで別のまとまりを持っていて、学生は、はじめから学際分野の学部に進学するか、専門的な学部に進学するかの二者択一を迫られているようです。ここには、専門的な学部に所属する学生が別の専門を勉強する、という発想はないように見えます。最近、主専攻(メジャー)と副専攻(マイナー)を導入した大学(ICUなど)も出てきましたので、いずれはうまくいくのかもしれませんが、現状はそこまで行っている大学は多くはありません。
現在の日本においてアカデミックポジションを得て安定した生活を送るには、学生時代、できるだけ早い段階で専門知識を詰め込んで専門家となり、専門家のコミュニティの中にどっぷり浸かって、そこで期待される役割を粛々と果たし、付き合いもそこそここなす、というのが最もインサイドトラックです。学術的に価値のある仕事ができること、そして仲間内で少なくとも悪いゴシップの素材にならないことが重要です(理系では、前者の条件は絶対ですが、後者も重要です)。他分野の勉強をするのは時間の無駄です。やりすぎるとコミュニティの中で「浮いて」しまい、居心地が悪くなること請け合いです。日本では、一分野を死ぬまで追求するタイプの研究者が尊敬される傾向があり(濃淡はあるものの)、「XX一筋ン十年」という人が「重鎮」と呼ばれます。
彼らはもちろん偉いのです。私は皮肉でなくそう思います。業績も立派で、組織の中でも頭角を現す人たちです。彼らのような人がいないと日本的な組織は回りません。
鍵になるのは金谷先生がおっしゃるように大学院で、確かに数学科からの進学をやさしくするなどの対策は有効だと思うのですが、数学科を出て他分野へ、というのには、実は全く別の障害があるのではないか、というのが私の見方です。これについては次回書きます。
金谷健一,数学と工学の断絶,盛和スカラーズソサエティ会報, No. 6(2006-8), p. 24.
これほど数学科卒業生に期待してくれているということに感激しました。
ここでは、なぜ縦割りになるのか、その理由について書きます。縦割りが悪い、と断定することもできないので、ここでは価値判断は脇に置きます。
先生が指摘されているように、日本の縦割り学問体制はちょっとハードです。
勉強している学生だけでなく、大学にポジションを得た後も、私のようにいろいろな学問分野を横断するタイプの人間は、いろいろと損なことが多いです。良い悪いは別にして。
学際分野というのは、縦割り学問を打破するためにあるはずですが、少なくとも日本では、学際分野はそれはそれで別のまとまりを持っていて、学生は、はじめから学際分野の学部に進学するか、専門的な学部に進学するかの二者択一を迫られているようです。ここには、専門的な学部に所属する学生が別の専門を勉強する、という発想はないように見えます。最近、主専攻(メジャー)と副専攻(マイナー)を導入した大学(ICUなど)も出てきましたので、いずれはうまくいくのかもしれませんが、現状はそこまで行っている大学は多くはありません。
現在の日本においてアカデミックポジションを得て安定した生活を送るには、学生時代、できるだけ早い段階で専門知識を詰め込んで専門家となり、専門家のコミュニティの中にどっぷり浸かって、そこで期待される役割を粛々と果たし、付き合いもそこそここなす、というのが最もインサイドトラックです。学術的に価値のある仕事ができること、そして仲間内で少なくとも悪いゴシップの素材にならないことが重要です(理系では、前者の条件は絶対ですが、後者も重要です)。他分野の勉強をするのは時間の無駄です。やりすぎるとコミュニティの中で「浮いて」しまい、居心地が悪くなること請け合いです。日本では、一分野を死ぬまで追求するタイプの研究者が尊敬される傾向があり(濃淡はあるものの)、「XX一筋ン十年」という人が「重鎮」と呼ばれます。
彼らはもちろん偉いのです。私は皮肉でなくそう思います。業績も立派で、組織の中でも頭角を現す人たちです。彼らのような人がいないと日本的な組織は回りません。
鍵になるのは金谷先生がおっしゃるように大学院で、確かに数学科からの進学をやさしくするなどの対策は有効だと思うのですが、数学科を出て他分野へ、というのには、実は全く別の障害があるのではないか、というのが私の見方です。これについては次回書きます。
2010-12-11
強さと脆さ
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本書の評価は、かなり割れると思う。タレブの独特の言い回し(教養豊かな毒舌とでもいうべきか)が好きな人には、毒が不足しているだろう(分量が少ないという意味もある)し、もともとタレブの読者でない人(『まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか
数学的に言うと、『ブラックスワン』で扱われた問題は、「べき分布」と、「確率空間の設定」に関する問題だ。これがごっちゃになって書かれている(タレブは区別していると思うが)上に、そこに文学的・哲学的・言語学的(?)教養がまぶされているので、余計にわかりにくい。この問題についてはいろいろと思うことがあるが、ややこしい話なので、ここに書くのは遠慮しておこう。
前半は、タレブの自慢話(本が世界中でベストセラーになったとか、セレブに会ったとか)と思って読んだら面白くないだろうし、後半も議論を徹底的に煮詰めた感じではない。
だが、私は本書でかなりインスパイアされた。たくさんのアイデアが湧いてきた(研究ではなく著作のアイデアだが)し、タレブの論文(特にデュアディ(有名な力学系理論の大家だ)と共著の論文)を読んでみたいとも思った。それは、タレブが社会科学に投げかける本物の疑念(というより欠陥の追求)が非常に面白いからだ(愉快という意味ではない)。
本書はこれまで同様、金融関係者だけでなく、社会科学者、特に経済学者にとってもすこぶる面白くない本だろう。タレブは彼らの大部分を心の底から馬鹿にしており、彼らのやっている学問を、無意味であると言うどころか、有害であるとまで言う。彼はプロスペクト理論のダニエル・カーネマンを除くほとんどの(全てかもしれない)ノーベル経済学賞の受賞者をこきおろしている。
本書のアドバイスのうち、私が本質的だと感じたのは、
壊れやすいものなら、早く、まだ小さいうちに壊れた方がいい
というものだ。リスクを取って「たまたま」成功した投資銀行などの企業が大きくなり、大きいがゆえに存続し(あるいは無理矢理存続させ)、そこでブラックスワンが成長し、世界を危機に陥れる。危機を未然に防ごうとすること自体が、ブラックスワンを成長させ、問題をより深刻化するのだ。
これには、金融のグローバル化という問題が引き起こす深刻な問題が提示されている。
いろいろ書きたいことはあるのだが、あまりに長くなりすぎるし、それは本書の書評ではなく、私の言いたいことなので、このへんでやめておくが、本書は考える素材として高い価値を持っている。だが、本書に書かれていることを理解するにはたくさんのものが必要だ。私は数学(確率論)の知識を基に本書を読んで、大変得るものが多かった。読者が何を持っているかで、読み方も得るものも変わる本だと思う。
2010-12-07
希望を持って
『食える数学
』が増刷になりました。ご愛読に感謝いたします。
さて、本書で紹介させていただいた『これなら分かる応用数学教室―最小二乗法からウェーブレットまで
』著者で岡山大学教授の金谷健一先生から、先生のお書きになった「線形代数の3つの観点」(数学セミナー, Vo. 28, No. 12/337 (1989), p.4.)という文章をご紹介いただきました。
金谷先生のお書きになる本がなぜ分かりやすいのか、その理由の一端を垣間見ることができます。
金谷先生は、
「教養課程で挫折しそうな学生諸君は、後できっと展望が開けるのだと自分に言い聞かせて、希望を持って勉強してほしい。」
という一文でこの文章を締めくくっています。金谷先生ほど数学ができる人でも、なぜこんなことをやるのか分からない、ということでいくばくかは勉強が困難になるのですから、まして一般の学生が苦痛を感じるのは当然のことです。
数学が現在の形になったのは、そう昔のことではありません。学生時代に、アーノルドの天体力学(現代風に言えば力学系の理論)の本を読みましたが、様々な抽象概念がなぜ必要になるのかよく理解できました。なぜ理解できたかと言えば、「定義、定理、証明」という順序ではなく(少しはそういう部分もありますが)、抽象概念が、まさに必要なタイミングで導入されていたからです。
人間の普通の理解の順序が、数学の論理展開とはしばしば逆だということは、もっと強調されてもよいと思います。
さて、本書で紹介させていただいた『これなら分かる応用数学教室―最小二乗法からウェーブレットまで
金谷先生のお書きになる本がなぜ分かりやすいのか、その理由の一端を垣間見ることができます。
金谷先生は、
「教養課程で挫折しそうな学生諸君は、後できっと展望が開けるのだと自分に言い聞かせて、希望を持って勉強してほしい。」
という一文でこの文章を締めくくっています。金谷先生ほど数学ができる人でも、なぜこんなことをやるのか分からない、ということでいくばくかは勉強が困難になるのですから、まして一般の学生が苦痛を感じるのは当然のことです。
数学が現在の形になったのは、そう昔のことではありません。学生時代に、アーノルドの天体力学(現代風に言えば力学系の理論)の本を読みましたが、様々な抽象概念がなぜ必要になるのかよく理解できました。なぜ理解できたかと言えば、「定義、定理、証明」という順序ではなく(少しはそういう部分もありますが)、抽象概念が、まさに必要なタイミングで導入されていたからです。
人間の普通の理解の順序が、数学の論理展開とはしばしば逆だということは、もっと強調されてもよいと思います。
2010-12-04
我意気軒昂也
数学計算概成功論文絶賛執筆中。書籍原稿修正執筆締切接近中。情報安全性論文査読結果未不受取。我望迅速審査兼良査読結果。
我意気軒昂也。印度在住残不充足四月。我更努力要。
漢文の時間にインチキ漢文をつくって、一人でニヤニヤしてたことを思い出した。丸一日こればっかりやってた日(日曜日)は、夕方ちょっと死にたくなったが。
我望知今年商売書大賞存在如何。昨年我受賞宣传媒体博客賞。假使今年非存在商売書大賞 商売書大賞变得黒歴史。
我意気軒昂也。印度在住残不充足四月。我更努力要。
漢文の時間にインチキ漢文をつくって、一人でニヤニヤしてたことを思い出した。丸一日こればっかりやってた日(日曜日)は、夕方ちょっと死にたくなったが。
我望知今年商売書大賞存在如何。昨年我受賞宣传媒体博客賞。假使今年非存在商売書大賞 商売書大賞变得黒歴史。
2010-12-01
私は、論文を投稿するのが嫌である。
社会学者の太郎丸博氏は、数理社会学会の学会誌に、こんな一文(「論文を投稿すること、審査すること」)を寄せている。
私は、論文を投稿するのが嫌である。
という衝撃的というか、こんなこと公には言わないかな、と思うセンテンスから始まるこの文章は、社会学という学問の現状を赤裸々に描き出している。
私は、論文を投稿するのが嫌である。
という衝撃的というか、こんなこと公には言わないかな、と思うセンテンスから始まるこの文章は、社会学という学問の現状を赤裸々に描き出している。
私も、論文を投稿するのは、ちょっとばかり苦痛である。細かいことを言うと、数学(or 数理物理)の論文の投稿はあまり苦痛ではないが、工学の論文の投稿ははっきりと苦痛である。
しかし、理工系の世界では、査読付の(まともな水準の)ジャーナルに掲載された論文以外は原則として評価対象にはならない。論文を書かない者は評価されない、というのが理工系のルールなのである。
さて、私が太郎丸氏の文章を読んで面白いと思ったのは、上にも書いたように
工学の論文を投稿する苦痛>数学の論文を投稿する苦痛
というのと、社会学の論文を投稿する苦痛との間に関係がある気がするからだ。
数学の研究については、最も大変なのは、どう考えても証明(研究の中身)を乗り越えることで、論文の執筆や投稿にはない。もちろん論文を書くのも大変ではあるが、私の場合、はじめからメモを論文形式で作成するので、研究の進展と並行して7割くらいは論文が完成してしまう。書き方の自由度もあまりないので、粛々と書くだけだ。投稿は電子的にスイスイできる。査読結果を待つのは苦痛でないこともないが、なんとなく論文の内容に見合ったジャーナルに投稿するので、あまり無理しなければ、リジェクトされる可能性はそれほど高くない。
工学では、もちろん研究は大変だし、論文を書くことも数学よりも大変だと感じる。自由度がやや高いから自分で構成を考えないといけないし、強調するポイントなどもよく考えなければならない。投稿の手続きも面倒なことが多い。Copyright 関係の書類を作ったりするのもそうで、数学と比べると明らかに煩雑な事務手続を経る必要がある。だが、これらは、少々手間がかかる、といった程度のことで、苦痛というほどではない。
しかし、投稿後の心配は工学の方が明らかに大きい。結果が予測できないからだ。投稿するまでにかなり練った内容でも、本質的ではない理由でリジェクトされたりすることもある。英文の不備に文句をつけてくることも多いし、内容が理解されていない(それはもちろん書き方に問題があるからだが)ためにリジェクトされることも多い。数学よりも審査の基準が曖昧で、査読者個人に依存することが多いのである。工学の名誉のために言っておくと、これはあくまで数学との比較でそういう傾向があるように見えるというだけのことで、査読は論文の品質保証に大きく貢献しているのは間違いない。
太郎丸氏のいう「投稿の苦痛」は、かなりの部分、この「基準の曖昧さ、予測不能性」の高さから来るのではないか、という気がする。
社会学者の取るべき方向は2つあると思う。一つは、海外のジャーナルに投稿する方向に切り替えるということ。もう一つは、国内で、論文ではなく、本を出版すること。
前者は、社会学特有かもしれない。太郎丸氏の報告と海外の社会学の論文(十数編読んだことがある)に基づいて素直に考えると、社会学では、海外の方がこの点ではベターである可能性が高く、予測不能性は下がると思われる。
後者は、多くの社会学者が取っている途である。日本では、一部の例外を除いて、書籍は査読されないことが多い(ほとんどされない)ので、好きなことが書ける。苦痛はない。著者にとって悪いことが一つもないのだ(酷評されることはあるが)。だが、話が際限なくいいかげんになる危険性がある。チェック体制がないのだから自制するしかないが、あまり厳密に書くと、商品としての価値が下がる(ようするに売れない)ことがある。
後者の方向に向かいがちなのは、やむを得ない気もするが、アカデミズムを重視しないと、分野全体が滅んでしまうのではないか。
外部からのチェックは、やはり必要なのではないだろうか。たとえそれが、いかに苦痛でも。
社会学者の取るべき方向は2つあると思う。一つは、海外のジャーナルに投稿する方向に切り替えるということ。もう一つは、国内で、論文ではなく、本を出版すること。
前者は、社会学特有かもしれない。太郎丸氏の報告と海外の社会学の論文(十数編読んだことがある)に基づいて素直に考えると、社会学では、海外の方がこの点ではベターである可能性が高く、予測不能性は下がると思われる。
後者は、多くの社会学者が取っている途である。日本では、一部の例外を除いて、書籍は査読されないことが多い(ほとんどされない)ので、好きなことが書ける。苦痛はない。著者にとって悪いことが一つもないのだ(酷評されることはあるが)。だが、話が際限なくいいかげんになる危険性がある。チェック体制がないのだから自制するしかないが、あまり厳密に書くと、商品としての価値が下がる(ようするに売れない)ことがある。
後者の方向に向かいがちなのは、やむを得ない気もするが、アカデミズムを重視しないと、分野全体が滅んでしまうのではないか。
外部からのチェックは、やはり必要なのではないだろうか。たとえそれが、いかに苦痛でも。
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