私は理学部数学科の出身だが、最初に就職したのは情報科学科、次に企業研究所、その後工学部電気情報工学科に就職して現在に至る。私は数学で博士号を取って、今でも数学の研究を続けているが、企業時代の仕事の続きとして、ハードウェアセキュリティの研究もしている。どちらでも研究論文を書いているので、どちらの苦労もそれなりに分かるつもりだ。
情報科学科は、あえて言えば理学系なのだが、工学出身の先生が多く、あまり理学系という雰囲気はなかった。企業はもちろんバリバリの研究開発だし、今いる工学部はもちろん完璧に工学部である(当たり前だが)。
今日twitterで、工学部なのに、理学部出身の先生が全然工学を考慮しないで教えているという話を聞いて、それはあるのかな、と思った。
私自身は、工学系の学生にどうやって数学を教えるかについてずいぶん考えてきたし、試行錯誤を続けてきた。現在もそれは続いている。(数学は純粋な意味では科学ではないので、これを理学全般と捉えるのは問題があるが、ブログなのでちょっと許してもらいたい。)
微力ながら、工学部向けの数学の教科書(「計算力をつける微分積分」、「計算力をつける線形代数」)も書いてみたりもした。普通のエンジニアになるために必要な内容を厳選して解説した教科書である。
数学者は、数学そのものに興味があるので、背景説明や応用の話はしないことが多い。応用はよく知らないという人も多いし、応用数学は純粋数学より程度が低いと思っている数学者は多いと思う(公式にはそんなこと言わないと思うが、感じる)。
その結果、工学部の学生にとっての数学の講義は、「何のためにこんなことをするのか」がわからないものになっているケースが多い。
実を言えば、数学におけるデリケートな部分の話は工学的応用とはほとんど関係がないのだ。
例えば、比較的水準の高い大学の工学部では、微積分の講義で、実数の連続性や、ε-δ論法をやらされた人が多いのではないか。実数の連続性は、種々の流儀(Dedekindの切断、制限完備性、Melay-Cantorの方法)があるので、ここでは、それを通過した後の数列の極限を例に取ろう。
数列{an}とは、自然数全体Nから実数(でなくてもいいが)への写像のことである、という定義はまあ、いいだろう。anがある実数aに収束するとは、
任意のε>0に対し、ある番号n0が存在して、n0以上の自然数nに対して、|an-a|<εとなること、と定義される。
最初に解析の演習でやらされるのは、大体こんな問題だろうと思われる。
(1) 収束する数列は有界であることを示せ。
(2) anがaに収束し、bnがゼロでない実数bに収束するとき、an/bnはa/bに収束することを示せ。
工学部の人の反応は、なんでそんな当たり前のことを証明しなければならないのか?ということだろう。それは確かにその通りで、実際数学者も、こんなことは当たり前だと思っている。しかし、前提から隙間なく推論した結果そうだというわけではない。平たく言えば、十分厳密ではない。
実際、これをε-δ(n)論法なしで証明しようとすると、ぼんやりしたことしか言えない。どんどん近付くからどんどん近付くのだ、という程度の話になってしまう。(もっとも、non-standard analysisのようなやり方もあるのだが、それはそれできちんとしたロジックで、どんどん近付く、という程度の話ではない。)
数学者にとって、数学とは、様々な命題を仮定から隙間(ギャップ)なく論証することで探っていく学問なので、ギャップがあればそれは証明したことにはならない。つまり、理解したことにもならない。
ところが、これは大部分の工学部生にとってはハタ迷惑な話なはず。当然にしか感じられないことをうんうん唸って証明しても、頭は鍛えられるだろうが、理論を作る立場になる場合を除いて、そこには実質的な御利益はない。
数学的論理を学ばなければ数学を学んだことにはならない、という考えでいけば、このプロセスをショートカットするわけにはいかないだろう。それは、数学者にとっては、数学の本質を理解しないということと同値だからだ。
これは、数学者側からするともっともなのだが、何の役に立つかもわからない(そして大部分の学生にとっては、結果的には役立たない)ことを延々やらされる学生はちょっと気の毒な気がしないでもない。故山口昌哉先生によると、「エンジニアにとって、数学というのは、料理のレシピみたいなものだ」という。ああやってこうすればおいしい料理ができる、というのと同じように、こういう問題を解くには、この公式とあの公式を使えばいい、というように理解しているというのだ(これは数学者にとってもそうなのだが、数学者はわからない問題を考えるのが商売なので、構えがだいぶ違う)。
これは、本質的な数学にかなり近いことをする物理学の学生にとっても同様だったようだ。名著「物理数学の直感的方法」に、面白い話が出てくる。彼はこう書く。
あなたが教室の中に入ると、机の上に竹片とカッターがあり、先生が非常に細い棒状の一片を切り出すように言う。何度か失敗してようやく成功する。次に先生はそれをバーナーで燃やして黒焦げの糸を作るように言う。くずれてしまったら最初からやり直さねばならないので、神経は忍耐の限度を超えてしまう。フラストレーションの主たる源は、先生が始めにこれから作るものが初期の白熱電球のフィラメントだということについて、一言コメントしておいてくれなかったことにある。(長沼伸一郎『物理数学の直感的方法』通商産業研究社、1987年、p.3)
この話がわかるひとにはひどく面白いのは、数学者による数学の説明を的確に言い当てているからだ。最近はだいぶ学生のことを考えるようになってきたと思うが、それでもこの話はまだ広範囲に当てはまると思う。
このように、非数学科において数学の講義をする際は、なんらかの意味で動機をはっきりさせる必要があると思われる。高校までと突然スタイルが変わるからだ(とまどわせるべきだ、という先生もいるが)。
個人的には、目的をはっきりさせた上で、将来理論の研究者になる学生がいそうもなかったら、ε-δ論法もばっさり切ってしまう方がよいと思う。私はそうしている。直感的な説明だけする。連続性も定義しない。つながっているかどうか、という単純素朴な理解で困ることはまずないからだ。
目的をはっきりさせること、役に立たない話をばっさりカットすることは、学生の学力が年々低下している(大学入学者の学力の低下)以上やむを得ないということでもある。
簡単な計算もできない学生に論理を教えこむのは間違っているからだ。計算は数学的論理そのものであり、計算できない人に数学的論理だけを取りだしてを教えるというのは馬鹿げていると個人的には思う。
だんだん一冊書けるくらいの話になりそうな気がしてきたのでこのへんでやめます。お疲れさまでした。
1 コメント:
わかります。数学ガール/ゲーデルの不完全性定理の宣伝ですね。(違)
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