Masahiro Kaminaga's Weblog

2009年12月6日日曜日

出版の未来(2)

堀江貴文さんが、こんなことを書いている。ゴルフの話はともかく、気になったのは、
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少しずつであるが、書店からネット書店へのシフトは広がっているはずである。Kindleなどのネット端末が普及してくれば出版社を通さず、直に編集者と組んでアマゾンなどのネット書店オンリーで売るという方式が普及してくるかもしれない。私ももうそろそろそういう方式にしようかと考えているところである。
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というところ。

現時点では、リアル書店の存在は大きいと思うが、確かにこの方向はありうると思う。

出版の未来でも書いたことだが、今後は出版社は水平分業せざるをえないと思う。堀江さんくらい知名度があれば、フリーの編集者と組んで一冊仕上げ、ちゃんとペイさせるのは簡単なことだろう。

個人的な感覚でいうと、中身のチェックは個人的に可能だし(人脈を利用するわけだが)、編集についてもなんとかなる。うちの場合だと、私が書いて、妻が読み、客観的な視点で読みにくいところ、わからないところ、それなりに面白いところなどを指摘してくれる。文章の細かい部分も修正してくれる。編集者と一緒に暮らしていると言ってもいいくらいだ。
DTPソフトは、INDESIGNあたりだと10万円いかないくらいで買える。こういうのを使えれば出版社に流通(リアル本の場合)とプロモーションを頼む以外は自前でできるのかな、と思ったりして。

問題は、プロモーション部分で、これは難しい。ここは本質的なところ。文章やら図やらは、ソフトウェアの話だから、使いこなす気力さえあればなんとかなると思う。完全に電子化されれば流通は不要になるから、やはり本質はプロモーションだ。

堀江さんのように、既に名前が知られている人で、パーソナルメディア(ブログなど)を持っているなら、プロモーションさえショートカットできるかもしれない。

出版社は、近い将来、自分たちの仕事を再定義する必要が出てくると思う。今のところ、リアル書店の比率の方がずっと大きいので、それほど緊急ではないかもしれないが。

2009年12月2日水曜日

出版の未来

リアルの本とリアル書店が大好きだ。私はとにかく巨大でなんでも揃っている本屋が好きで(風情がなくてスマヌ(丸善インタビューでも同じこと言ってる))、並んでいる本を端から手にとってパラパラめくり、「お」と思った本をどんどん買ってしまうというのが一番の楽しみだった。休日には、リュックを背負って、書泉グランデ三省堂をぐるぐる回り、古本屋も物色して、数万円分の本を買ってルノアール(喫茶店)のふかふかのソファに座ってコーヒーを飲みながらニヤニヤ眺めるというのが最高の娯楽だった。年間30-40万円は本を買っていた(専門の洋書は、有隣社を通して買うことが多かった)。

だが、このスタイルでどんどん本を買うことはもうないような気がする。私の頭は、電子情報に慣れすぎてしまったので、紙でなくてもストレスを感じにくくなっている(なくはないが)。自宅も大学も本で一杯だ。もう勢いだけで買うのは物理的に難しくなっている。

今や、(書評系&学術系)ブロガーが最初の(ハイパス?)フィルタで、そこでかなり絞り、図書館に予約して一読し、面白そうなものだけAmazonで買うというスタイルから抜けられそうにない。新刊はあまりに多く、過去の本まで含めると読むべきものはあまりに多い。ブロガーはもはやインフラである。それでも本は増える。どんどん増える。生活圏を脅かすくらい増える。

このままいけば、本を捨てるか、バラバラにしてスキャンしてpdfにするかしか策が残っていない。もう既にあちこちで言われているが、一冊買った人にはpdfを無料配布というわけにはいかないのかと思う。そうすれば本の中身が検索できるようになるし、読者としてはいいことばっかりなのだが。出版社としては、pdfをコピーされてしまうのが問題だが、やたらとロックがかかっているのもちょっとどうかという気もする。自分で買った本くらいどこでも読みたいし。

電子化したい。全部。この強烈な欲望。


干場さんがこんなことを書いている。

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嵐の前の、価値と創造の場所 ●干場

今まさに、グーテンベルグ以来の変革の時だが、真の脅威はグーグルではなく、出版社抜きに誰でもローコストで「本」を書き流通させられることだと私は感じる。
実際、現在の出版社を中間搾取者のようにとらえている若い読者や著者志望者が少なくないのを感じる。でも逆に、だからこそ、出版と書店の力を見せてやろうじゃないかという気持ちもある。
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おそらくKindleなどが頭にあってのことだろう。

書籍の電子化が進むのは、時間の問題だ。
そうなれば、出版社が水平分業化するのは間違いない。

例えば、こんな風に。

(1) プランナー
(2) プロデューサー
(3) プロモーター
(4) チェッカー(校正 and 内容の真偽(査読?))
(5) デザイナー
(6) エディター(12.3追記

(1), (2), (5), (6)は個人でも可能かもしれない。(1)は捉え方にもよるが、誰に書かせるかまで含めて企画を立てられる必要があると思う。(2)は、(1)の方向性と著者の個性を見つつ完成まで導く役割で、なかなか大変な仕事のような気がする。(5)においては、装丁の役割がどうなるのか、まだよくわからない。ただ、中身のデザインやイラスト(イラストはイラストレーターだと思うが)といったものが不要になることはないと思う。

(3)は人員がかかる。これは会社組織でないとできない。ディスカヴァーは、(3)が圧倒的に強い。

(4)は校正もある程度そうだが、内容の真偽を判定するところまでいくと専門家が必要。私の場合は、大学関係者(リアルの知人とは限らない)に、査読をお願いしている。私の場合、専門外の領域まで書くので、どうしても必要になる。
専門家同士でも査読を経て論文が掲載されることを思えば、このプロセスが重要なことは間違いない。科学読み物のようなものの場合、一応の科学教育を受けた人(例えば博士号を持つ人)が、フリーで請け負うということも考えられる。
(もっとも、嘘でも面白ければいいという本の場合、真偽の判断は不要だけれど。)

リアル書店が当分存在し続けるだろうことを考えると、この変化は数年という単位ではないと思うが、10年から15年後、出版地図が今と同じというのも信じがたい。

出版社の方々は大変なのだと思うが、不謹慎にもわくわくしてしまう自分がいる。

2009年11月23日月曜日

働かざるもの、飢えるべからず。

組織は仕事を処理する装置であると同時に、仕事を作りだす装置でもある。

組織に属してみれば、実質的な意味がない仕事が大量にあることに気づくのは時間の問題である。特に、不思議な作文(何であるかはあえて言うまい)がたくさんある。企業でも結構多いのだが、大学は特にひどく、作文の大部分は祝詞のようなもので、実体が存在しないものばかりだ。

私たちは、既にやらなくてもいい、あるいはやるべきではない仕事に追われているのではないかという気がしてくる。

そんな気分で鬱々としているときに、小飼弾さんの新刊「働かざるもの、飢えるべからず。」(サンガ)を読んだ。

以下は私なりの解釈で、実際の主張と微妙に違っているかもしれない。

本書の主張はベーシック・インカムの必要性と有効性を示すことにある。

小飼さんは、本書で、諸悪の根源(?)は、「働かざるもの、食うべからず」という考え方にあるという。

この考え方に至る過程は、「「仕組み」進化論」(日本実業出版)を読むとわかる。「仕組み」進化論における本質的な指摘は、我々の社会は既に必要なもの、あるいは必要なシステムを回すのに、これまでの20%の時間しか必要としないということだ。80%は、次のことを考えるために使えというのである。

これは無駄な仕事が作りだされている現状を考えるとよくわかる。私たちは、もしかすると、本能的に、雇用を作り出すために無駄な仕事を作りだしているのかもしれない。

つまり、我々は既に必要以上の生産力を持っていて、無意識に(?)無駄な仕事を作りだすまでになっている。ならば、働かない人がいることを前提に社会システムを構築し直さなければならない、という考え方である。

そうなると、最大の障害は、「働かざるもの、食うべからず」という考え方だということになる。この考え方を肯定すると、無駄な仕事を作り続けなければならなくなるし、働いていない人を見て腹が立つ、ということになるからだ。

ここを克服するアイデアが本書の肝である。

小飼さんは、本質的に哲学的な人だ。ウェブ上ではマッチョで頼りがいのある兄貴という感じだが(実は私の方が年上なのだが、そんな気にさせられる)、案外、生きる意味について繰り返し考えているのではないか。あたかも頼れるものがない中学生のように。

これは実は堀江貴文さんにも通ずるところがある。俗物に見えて哲学的なのだ。

この点が、私のように、本質的にphysicalな人間と違うところだ。いわば私には頭と体はあるが、spiritがない。小飼さんと堀江さんは、physicalに見えてspiritがあるような気がする。私の頭には事実と事実の射影としてのデータばかりあって、いかに生きるべきか、生きる意味は何か、といった哲学的な問いに欠けている。それはおそらく、私が幸福な子ども時代を送ったということと関係しているだろう。私は現状に対する「不満」を持つが、「不安」というものはない。自分の存在を完全に肯定しているから、生き方について悩まないのだろう。私は、悩むのが苦手だ。悩んだのは、中学時代から大学くらいまでだが、それは非常に単純にやりたいことをやるだけの能力がなくてぶーぶー言っていたに過ぎない。それは単に不満だったのであって、高尚な悩みなどではない。天才的な数学者のように華麗に仕事をしたいと思っていたが、そんな能力はない、それだけのことである。(毛が薄くなるのと同じく、後は受け入れる他ないのだ。)

こういうとき、生きづらさについて考え、応えられるのは、spiritualな人だけだ。

小飼さんは、みかけによらず(!)spiritualな人なのだ。強靭な人だとも思うが、それは、私のような単層の自我がなせる技ではない。考え、悩みぬいた結果の強靭さなのだ。それは、私のような単層の自我よりもずっと強い。私には悩みを受け止めるだけの度量がないが、彼にはあるからだ。

小飼さんは、この発想の根源と対峙するために、スリランカ上座仏教長老スマナサーラ師と対談している。それをここで再現してもいいのだが、これは本書を読んでもらった方がずっと面白い。対談だと双方の主張のぶつかり合いがあるのが普通だが、本書における対談は、同じ考えを持つ人同士の話で、多少の食い違いはあっても、ぶつかり合いはない。それは小飼さんが仏教徒だということではなく、この種の考えを突き詰めると仏教的な境地にたどり着くということなのだと思う。

2009年11月18日水曜日

研究者が国の予算を使うことについて考えておくべき4つのこと

今回の仕分けについては、言いたいことはたくさんあるが、もう遅いので、今後考えるべき問題をメモしておく。私が感じた疑問である。

ブログを書くのは、先週金曜日に北大の石村源生先生(科学技術コミュニケーションの専門家)とお話させていただき、ちょっと刺激されたからだ。

私は、科学研究費補助金の一部の執行停止に対する反対署名にはまだ署名していない(しないかもしれない)。反対であるというより、どう判断したらいいのかわからないので署名していないというだけであるが。

この呼び掛け文の冒頭には、こう書かれている。
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日本は高い科学技術を保持し輸入した製品に付加価値をつけて輸出をし、その差額で資源や食料などを輸入する加工貿易立国であり、それ故に科学技術立国としての地位を守らなければいけません。日本のロングスパンの科学技術の将来を支える若手研究者の生命線ともいえる科研費などの一部(以下参照)が突然削減されようとしています。それによって研究者生命を断たれようとしたり、海外の一線で研究をしてきた研究者が突然の停止によって帰国を余儀なくされています。これは将来の日本の科学技術に大きく影を落すものであり、結果として加工貿易大国としての日本の将来を奪うものです。
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この文章の中で、若手云々に関しては、確かに気の毒だ、と思う。感情的には完全にこの意見に賛成である。

だが、私はどうも、この枕詞のように繰り返される「科学技術立国」という言葉のリアリティを疑ってしまう。過去形であればわかるのだが。

科学技術立国というのは本当だろうか?それは何を指しているのだろうか?日本の将来を奪うというが、科学技術立国でなくなったら食べていけないのだろうか?それはyes/noで二分できることなのだろうか?

私は、ここで展開されているロジックがどの程度根拠を持つかまだ自力で考え抜いていないのだ(正しいのかもしれない。まだわからない、というだけ)。

最初に断っておくが、私は立場としては科学技術側(解析学&情報工学の研究をしている)で、予算は重要だと思っているし、今回の事業仕分けには腹が立つ点もたくさんある。

しかし、ここで少し頭を冷やした方がいいとも思っている。将来のために。

(1) 科学技術研究の予算は、なぜ他の予算よりも重要なのかに答えること

まず、最も難しい問題だが、なぜ科学技術の研究が重要で、それに多額の予算を割かねばならないかを十分説明する必要がある。予算が限られている以上、多額の研究費を使えば、その分、別の予算が減るのだ。極端なことと思われるかもしれないが、大規模な実験プロジェクトを行うために、貧しい人に回る予算が削られるかもしれないということをよく考えておかなければならない。

そして、あまり議論にならないが、なぜ科学技術の研究だけ特別扱いしなければならないのか、という質問にも答えられる必要がある。科学や技術より、社会科学は重要ではないのか?人文科学は?どちらも研究費を必要とする。例えば、大規模な社会調査は数千万円からことによると億単位の費用がかかる。科学技術の研究と同じく、後進を育てるための予算も必要だ。

もちろん、他分野が重要でないなどとは言っていない、皆重要だ、と答えることもできる。ただ、それは気持ちとしては理解できても現実的には意味がない。予算が減るなら、すべての研究分野に研究費を潤沢に配分することはできないからだ。何かを増やせば(あるいは維持すれば)別の予算が減る。それを正当化する根拠は何か?

(2)なぜ日本で研究しなければならないのか?なぜ日本人が成果をあげなければならないのか?

少なくとも科学はパブリックなものではないか?成果は論文として発表されるし、研究者も世界中を飛び回っている。なぜ日本人の成果が重要なのか?アメリカ人でも、中国人でもインド人でもいいのではないか。科学の成果の多くは日本以外で日本人でない研究者によって成し遂げられている。我々はその便益を得ている。なぜ日本がリードしなければならないのか?予算がかかるなら別の国と協力してはいけないのか?

工学の場合、特許も重要だが、特許だけ保持していても人類は進歩しない(むしろ阻害する)。事業化しなければ特許は生きてこない。これまでどれだけ事業化に成功しているか?特許によって日本人はどれだけの利益を得たのか?

(3)誰が研究を評価するべきか?

仕分け人の人選が変だ、という声もある。もっと研究者を入れろという人もいる。

実は皆わかっていると思うが、研究者は他の研究者に対して好意的であるとは限らない。同じ分野であればライバル心があるし、他分野のことはわからない。したがって、研究者をいくら大勢集めてきても、どの研究がどれだけ重要かはわからないということになる。それぞれが自分の研究の重要性を主張するだろう。

そう考えるなら、研究者が研究全般のプライオリティを決めるのは不適当なのではないか?

(4)研究資金は国が負担するべきか?

基礎研究の大部分は、ダイレクトに利益を生み出さない。これらは、国の予算を使う必要があるかもしれない。しかし、応用研究、例えば工学では、企業と共同研究することも可能だし、ものによっては事業化して会社を作ってもいいのではないか?少なくとも「役に立つ」ことを研究している研究者は、事業化に積極的に取り組むべきではないか?


全体にかかわることだが、私は「国家が競争力を持つ」という考え方がどうもうまく飲み込めない。製品開発でもサービスでも、競争しているのは国家ではなく、個々の企業である。研究の場合は、研究者個人、あるいは研究チームが競争力を持つのであって、国家が競争力を持つのではないのではないか?

私自身、今のところ、きれいな解答を持ってはいない。解答がないから正当化もできない。

2009年11月16日月曜日

量子コンピュータを勉強してやめた話

サラリーマン研究者時代、割とまじめに量子コンピュータの勉強をしたことがある。電通大と東工大で隔週(土曜日)でゼミをやっていたので、一時期参加していた。論文も数十本(50本くらいかなあ)は読んだと思う。quant_phというpreprint archiveに豊富に量子コンピュータ関係(アルゴリズム&実装関連)があって、仕事の気晴らしに読んだ。

私がやっていたセキュリティの研究では論文が書きにくい。自社製品の話はデリケートなので、あまり積極的に外部に出さないからだ。そこで、仕事とは別の研究ネタを探していて面白そうなので勉強してみたという話である。(ちなみに、私はいろいろもがいていて、量子コンピュータ以外にもいろいろやった。金融工学もかなり力を入れて勉強した。リアルオプションの研究がやりたいといって却下されたこともある。)

私はもともとシュレディンガー作用素の研究が専門なので、量子力学には馴染んでいる。なので、量子アルゴリズムはそれほど理解しにくいものではなかった。

量子アルゴリズムとは、思い切りざっくり言えば、ユニタリ変換である。ユニタリ行列を想像してもらえればいい。なぜそうなるかは別段難しいことではない。
シュレディンガー方程式は、適当にスケールを変えて定数を規格化すると、
i∂tΨ=(-Δ+V)Ψ=HΨ
の形に書ける(スピンと磁場は考慮していない)。

Hは、Vが適当な条件、例えば、

V(x) ≧ a|x|^2 + b (a,bは実定数)

を満たせば、自己共役(self-adjoint)な作用素として実現できる。このHをHamiltonianという。すると、スペクトル分解定理及び、Stoneの定理によって、Ψは、時間tをパラメータとした(強連続な)ユニタリ群になる。具体的には、

Ψ=exp(-itH)Ψ0

となる(Ψ0は時刻0における波動関数)。

Hが自己共役だから、exp(-itH)はユニタリになるのである(あらっぽく言うと、自己共役なら固有値(正確にはスペクトル)が実数だからだが、余計にわからないかもしれない。スマヌ)。
Hは一般には無限次元のHilbert空間の作用素なので、当然対応するユニタリ変換もそうなるが、有限個の固有状態だけを操作する場合、本質的には有限次元のユニタリ変換(ユニタリ行列)になる。

Hamiltonian Hの一次独立な2つの固有状態を考える。これを、Dirac流に、|0>, |1>と書こう(それぞれ、ケット0、ケット1と読む)。Hは自己共役だから、当然、この2つは直交する。この2つの固有状態の重ね合わせ(複素一次結合): u = α|0> + β|1> (|α|2 + |β|2=1) をqubit(quantum + bit)という(もちろん2個に限らずいくつでもいいが、係数の絶対値の2乗の和は1にならねばならない)。ここは通常の計算機のビットとは決定的に違う。というのは、通常の計算機では、2ビットで表現できるのは、4通りの状態に過ぎないが、qubitは無限(連続濃度)の状態を記述できるからだ。

このqubitをユニタリ変換で操作するわけだが、このqubitの範囲で動かすなら2×2のユニタリ行列で表現できる。

というわけで量子アルゴリズムは、まあ、ざっくり言ってユニタリ行列なのだ。

さて、量子コンピュータ(量子チューリングマシン)で何ができるのか?というと実は、普通のコンピュータ(チューリングマシン)でできないことができるようになるわけではない。つまり計算可能なものが増えるわけではない。

ただし、計算量は変わる可能性があって、有名なものとしては、以下の2つがある。

(1) Shorのアルゴリズム(離散対数問題及び素因数分解)を決定的多項式時間で計算できる。
(2) Groverのアルゴリズム(n個のうち1つだけ何か印があって、それを見つけるのに必要な計算量が、√nのオーダー)

このうち、(1)は公開鍵暗号の安全性の前提を揺るがす(本質的には無意味にする)ので、話題になった。証明は特段難しくはないが、ブログで書くのは難しい。いろいろ解説書がでている。

個人的には、ShorのアルゴリズムよりもGroverのアルゴリズムの方が量子力学的(?)な気がする。重ね合わせがダイレクトに出るからだ。

この他、qubitのコピーができない(no cloning theorem)とか、通常の計算機の枠組みで考えるとおかしなことが起きる。

なんだか夢のある素晴らしい話...のような気もするが、私は途中で勉強をやめてしまった。というのは、(1), (2)はある意味で本質的すぎて、アルゴリズムとしては、この先本質的な発展はなさそうだな、と思ったからだ。セミナーでも、このアルゴリズムをいろいろいじるとか改良するとか、別の対象に適用するとか、いろいろ問題はあるようだったが、それほど面白いとは思わなかった。本質的な仕事が完成しているというのはこれから勉強しようという気分を減退させるに十分だった。

これに限った話ではないが、アルゴリズムの話というのは、どうも本気でやる気になれない。それは数学に見えるが、数学ではない気がする。アルゴリズムは本質的には(当然かもしれないが)計算機科学なのであって、数学ではないのだ、たぶん。

2009年11月11日水曜日

時代遅れの価値

スケジュールはGoogle Calendarで管理しているのだけれど、たまに入力を忘れてしまう。

なぜか、というと、紙で連絡が来ることが多いからだ。紙で連絡されたことを入力し忘れてしまう。特に、紙で連絡が5つも6つも来た場合、そのうちのいくつかをその場で処理して(電話したり、メールを書いたり)いる最中に、学生が質問に来たり、論文のreferee commentsが来たり、出版社から電話があったりすると、つい入力を忘れてしまうのだ。メールで来た連絡は、その場で入力してしまうので大丈夫。紙で来たときが危険。

いや、困ったな。というか、気をつけるようにするしかないんだけれど。

大学には、全ての情報を紙ベースで管理している人が結構いるので、こういうことになる。いや、別にそれがいけないと言いたいわけではないのだが、連絡は、「必ず」紙とメール両方でしてくれると助かるんだけどなぁ。

何もかもをIT化できる時代はまだ当分来ないんだろう。そして、来た頃には、私が時代遅れになり、「神永先生は、いまだにメールとか言ってるんですよね...」とか言われるのであろう。

なんか、昔は時代遅れがいいみたいな風潮があったような気がする。いや、私もリアルタイムではよく覚えていない。



これは再放送か何かで見た記憶がある。昭和53年10月ってえと、私はなんだ、11歳か。時代遅れってカッコよかったらしい。時代に乗り遅れるな、とかいうとなんとなくカッコ悪いかな、今でも。

だが、時は流れ、「時代遅れ」は歌われることさえなくなり、単なる仕事の邪魔になっているのだが。

と、単なる物忘れの多さを他人のせいにしてみる。

2009年11月5日木曜日

計算力をつける線形代数&微分積分送料無料キャンペーン

私が著者の1人になっている「計算力をつける微分積分」と「計算力をつける線形代数」ですが、版元の内田老鶴圃(うちだろうかくほ)の社長さんが、なんと、出版社サイトからの注文に対し、期間限定(2010年1月末まで)で送料無料にしてくれました!

Amazonでは入荷冊数が少ないせいか、「在庫切れ」や、「通常3~5週間程度でお届け」...などという状況になってしまうので、内田さんに無理を言って実現してもらったキャンペーンです。この機会にご利用いただければ幸いです。

Amazonでは、1,500円以上送料無料になっていますが、版元からの直販で送料無料はなかなか大変なことだそうです(通常は、税込10,500円以上で送料無料)。

メールには、次の一言が。

今回は送料サービスを個別に適用することにしました.
(清水の舞台から飛び降りるつもりで...)

よろしくお願いします。

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計算力をつける線形代数&微分積分